ファッション
ファッション()とは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。なかでも特に、人々の間で流行している服装や装いを指す。
多くのスタイルは多くの文化においていつでも受け入れられているが、デザインやファッションの流れは文化全体よりも速く移り変わるという点が重要である。「ファッショナブル」(である、でない)という表現はある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い表現方法に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。ファッションデザイナーはその中にあって「着られる芸術作品」を作ろうと試みる。
服飾(被服)の他、装いに関係する装身具(装飾品、アクセサリー)、美容(理容、髪型、化粧)、香水などもファッションの範疇である。販売促進のためファッション写真、ファッション雑誌、ファッションモデルが発達し華やかなファッションショーも行われ、大きな産業を形成している。さらに広義には音楽などの文化やまでをも包括しうる。
世界的なファッションの中心地、あるいはが開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する[日本語ではここからの転義でファッションウィークのこともコレクションと呼んでいる。フランス語では''semaine des defiles''。]。ロンドン・パリ・ミラノ・ニューヨーク・東京は多くの大ファッション企業やブランドの本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。
メディア
はファッションの重要な一部分である。
編集者による批評や解説が雑誌、新聞、テレビ、ファッションサイト、SNS、などで行われている。
20世紀初頭から、ファッション雑誌は写真やイラストレーションを盛り込みはじめ以前よりも一層強い影響力を持つようになった。世界中の都市でこれらの雑誌は大人気となり、一般人の嗜好に深い影響を及ぼした。最新のファッションと美容の変化を伝える出版物のために才能あるイラストレーターたちが洗練されたファッション画を描いた。こうした雑誌のうちで最も有名なのはおそらく、』(『上品な雑誌』)であろう。
1892年にアメリカ合衆国で創刊された『ヴォーグ』は現れては消えていった無数のファッション雑誌の中で最も長続きし最も成功したものである。第二次世界大戦終結後の経済的繁栄と、そして何より、1960年代の安価なカラー印刷の出現によってヴォーグ誌は爆発的に部数を伸ばし、また主流の女性雑誌でもファッションを大きく取り上げるようになった。1990年代には男性雑誌もこれに続いた。オートクチュールのデザイナーはプレタポルテと香水を扱いはじめることでこの流れに乗り、これらは雑誌で大々的に宣伝され、現在では本来の服飾ビジネスを矮小化する結果となっている。テレビでは1950年代にファッションの小特集が組まれるようになった。1960-70年代にはさまざまな娯楽番組でファッションのコーナーがより頻繁に流されるようになり、1980年代には
日本
''日本の衣服(和服)の歴史については、和服#歴史を参照''
日本では服装の西洋化が広まっているが、その直接的な要因は1858年の日米修好通商条約だとする説がある。
それによると、この条約により各地の港が開かれ、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として、服装の西洋化が広まっていくことになる。
1543年に種子島へポルトガル船が漂着した時から鎖国までのしばらくの間にも、一部の大名などに贈呈されるなどして、少数ながらも西洋の服飾は流通しており、江戸時代末期には長崎の出島などでは特別珍しいものではなかった。
1864年には、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。
日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされる。また、断髪令により髪型も従来の髷から散切り頭となった。
その後しばらくは、小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになり、1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化することになる。
1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。
1927年9月21日には、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催される。これは一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。
また、日本橋にあった「白木屋」デパート(旧・東急百貨店日本橋店の前身、昔発生した大規模火災で、やはり和装の人々に被害が多かったことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加し、更にそれにならう形で、大衆の服装の洋式化も徐々に広まっていった。
1930年代後半から1940年代前半にかけては、戦時体制により繊維・衣服の統制が極端に進み、さらに百貨店自体の売り上げが低迷した時期でもあった。
1945年に衣料切符制度がとられ、国民服と呼ばれる統一規格の洋服が配給され、数少ない配給衣服の着用での生活を余儀なくされる。絶対量が少なかったため、和服をもんぺに作り替える者も多かった。
戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになった。食料など様々な物資不足はもとより、衣服も不足し闇市でも入手できない立場の大衆は、1948年からGHQの放出衣料による古洋服の着用を始める。戦争からの開放感もあり、「占領軍ファッション」として中古アメリカ衣料への傾倒が起こり、戦後初めての流行感覚が生まれた。
ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃である。日本の繊維産業はすべて手探りの状態から、ビニロンやテトロン(ポリエステルの商品名)、レーヨンなどの化学繊維の開発、製造を始めた。
1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。
1958年には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。しかし、一般には修繕した継ぎのあたった衣服は、家庭での普段着や作業着にまだ多く目につく時代だった。
1975年頃よりニュートラが全国的に流行。これにより海外高級ブランドユーザーの大衆化(若年齢化)やセレクトショップのブーム、ファッション誌のモデル大量起用など、時代の転換点となった。